2008年02月27日
養蚕業って儲かるんですかね?
なんか儲かりそう!
養蚕業(ようさんぎょう)はカイコ(蚕)を飼ってその繭から生糸(絹)を作る産業。
養蚕業の歴史は古く、中国から他国に伝わったとされる。日本では弥生時代に中国大陸から伝わったとされる[1]。
養蚕業は蚕を飼うためクワ(桑)を栽培し繭を生産する。繭を絹にするために製糸工場で繭から生糸へと加工され、生糸をさらに加工して絹織物などの繊維になる。現在日本では蚕を使ったタンパク質の生産の研究が主になっているが、培養細胞によるタンパク質の生産効率の高まりとともに、蚕を用いる優位性は下がってきている。
日本の養蚕業は幕末から昭和初期にかけて全盛期を迎え、海外にも良質の生糸を大量に輸出した。こうした良質の生糸の大量生産をもたらしたのは、幕末の画期的養蚕技術の開発・発明である。
陸奥国伊達郡(現在の福島県伊達郡と福島県伊達市)は江戸時代中期に天領となって以後養蚕が奨励された。蚕都として知られた伊達郡梁川(やながわ:現 福島県伊達市梁川町)では、中村善右衛門(1809-1880)が蚕当計を発明して安定的な養蚕の実現した。伝統的な養蚕は清涼育とよばれる自然の温度で蚕を飼育していた。幕末には人工的に温度や湿度を管理して蚕を効率的に飼育しようとする温暖育が試みられるようになったが、勘と経験による不安定さを払拭できなかった。中村善右衛門は蘭方医の体温計をヒントに蚕当計(寒暖計の一種)を発明し、初めて温度・湿度を正確に管理する温暖育が可能になった。なお、天領の時代、梁川の生糸は江戸幕府指定品だった。
18世紀後半、日本の主要な蚕種産地は陸奥国信達地方(信夫郡と伊達郡)と上野国長沢と下総国結城だったが、当時年間25万枚生産されていたという種紙(蚕の卵を付ける紙)のうち、18万枚は信達地方の生産だった。
温暖育と合理的な人工交配による養蚕業の効率化で大規模経営化が進んだ伊達郡一帯の養蚕業では、蚕種業(蚕の人工交配や卵の売買)、養蚕業(養蚕と繭の出荷)、製糸業などの分業化が進み、豪農が誕生し、各地から集まる買い付け人のための関連産業(旅館、娯楽施設)なども発展した。江戸時代後半には、さまざまな養蚕技術書がまとめられて、広く養蚕農家に普及し、品質向上に寄与している。また、養蚕研究と相まって、民間の学問や算術も盛んになった。但馬国養父郡(現兵庫県養父市)の養蚕研究家だった上垣守国は、但馬国での養蚕業発展のために毎年のように信達地方を訪れて研究し、その成果を「養蚕秘録」としてまとめた。養蚕秘録は養蚕指導書として広く普及し、シーボルトも帰国する際に持ち帰り、ヨーロッパでフランス語やイタリア語にも翻訳された。こうしてヨーロッパに紹介された養蚕技術書はフランスのパスツール研究所でもテキストとして使用され、特に交配技術は遺伝学研究の貴重な資料になったと言われる。
明治にはいると、養蚕景気をあてこんで信達地方には100以上の銀行が乱立し、日本銀行福島支店も設立された(福島支店は東北地方では初の日本銀行出先機関である)。
その後、梁川には大正3年に蚕業試験場が設立され、昭和42年には福島県農業短期大学校蚕業科(養蚕専門大学)も併設された。しかし、養蚕業の斜陽化とともに勢いを失い、昭和50年代後半には養蚕農家はほとんど廃業。農業短期大学校蚕業科も東アジアからの留学生受け入れが中心となり、平成元年には廃校となった。その後、蚕業試験場は福島県農業試験場梁川支場として整理され、さらに平成18年3月31日には閉場となった。梁川支場の蚕に関する研究は、平成18年4月に福島県郡山市日和田町に開所した福島県農業総合センターに引き継がれている。(同センターは福島県内各地の農業関係施設を整理統合している)
(以上、ウィキペディアより引用)
でも気持ち悪いっすね。。
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